ほとんど海外で育った日本人が、新卒で日本の会社に入った話

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こんにちは。ジュークです。もうすぐで3月も終わりです。1年の25%が終わったと思うとなんだか早い気もしますね。

もうすぐ4月ということで、私の個人の体験談ではありますが、新卒で日本の会社に入った時の話を簡単にまとめてみたいと思います。この時期になると、「あの頃は大変だったけど、経験としては良い財産になったなあ」と黄昏ていたりしますね。

それではさっそく行ってみましょう。

日本の会社へ入った経緯

海外での仕事をしていた父親は転勤が多く、私は人生のほとんどを海外で過ごしました。今もオーストラリアに住んでいますが、人生の年数の半分以上が海外です。日本に住んでいた年数はそれほど多くないですが、人生の要所要所を日本で過ごしていたような気もしています。

そんな要所の1つが大学卒業後、就職活動で日本へ帰国した時でした。

オーストラリアの某大学を卒業した私は、学生ビザが失効するので留学生なら誰もが直面する「ビザ問題」との戦いが始まりました。簡単にいえば、残ろうと思えばビザをなんらかの形で延長し滞在はできる。だが、豪州の就職活動は日本のような新卒一括採用ではなくスキルと実務経験が主軸である。大学を出たばっかりで、インターンも経験しなかった二十歳そこそこの坊主には難しい現実でした。

履歴書も卒業間近のタイミングでいくつか提出し、面接も受けたがオファーはゼロ。日本での「新卒カード」を使うためにも私は帰国を決意した。

文系であり英語くらいしか自分には武器がないと思っていた当時の私は、「海外」と仕事がしたいと漠然と考えていた。「海外との仕事なら商社やメーカー」という安直な考えから、総合ではないが一定規模のある商社に新卒入社した。

そこからは「逆」カルチャーギャップの連続だった。

MEは何しにニッポンへ?!

「なんかすごいところにきちゃったな」と当時の私が思い、感じた「逆」カルチャーギャップをいくつかまとめてみたい。

満員電車

就職活動中も、就職が決まってからも、日本を再び離れるまでずっと私は日本の満員電車には慣れることができなかった。ぎゅうぎゅう詰めでパーソナルスペースの「パ」の字もない。知らない赤の他人と体が接する。「国連もびっくりの人権のない空間」と私は思った。何度か痴漢騒ぎも目撃した。不思議なことに数年もたてば、満員電車では無感情になれば良いという悟りを開くことができた。

「新人は先輩より30分早く出社しろ!」

そこそこ歴史のある会社であったため、このような上下関係というか「新人」であることによるルールは多かった。実際に30分前にこなかった同期は上司に朝みっちり怒られていた。今思うと、暇な会社だったのかもしれない。

会議の目的は「情報共有」であり「議論」ではない

「でたー 帰国子女!」と笑われるかもしれないが、米国や豪州の教育で育った私にとってミーティングの目的は答えのない問題に対しチームで議論し答えを出すことと理解していた。まあ、全てのミーティングがそうであるとは言わないが、その比率が高いのではと思っている。一方、新卒で入った会社の会議では若手社員は発言権がほとんどなく、部長などがあらかじめ配られた事業報告書などを一語一句読む時間であった。「これならメールでよくない?」と思いながらいつも睡魔と戦っていた。

「Dear XX-san」

海外拠点や海外顧客とのやりとりの一行目である。意図や意味はわかるが、個人的にはあまり好きではなかったし、今でも好きではない。特に相手が日本人でなくとも「Dear John-san」などは逆に不恰好な気はする。

飲み会は仕事のうち

上司や部署の飲み会は2週間に1回くらいはあったし、残業で残っていた先輩たちと飲みに行くことも週に1回はあった。疲れていて帰りたい時や、プライベートの用事があって断ろうとすると「飲みも仕事のうちだろ!!」と怒られたこともあった。一回部署の飲み会にいかなかった時、翌日部長に呼び出され小一時間説教されたこともあった。今思うと、あの部長は暇だったのかもしれない。

派遣と正社員が同じ仕事をしている

オーストラリアにもカジュアルやテンポラリーのポジションはあるが、そういった人たちの仕事はあらかじめ「短期的」であることが明白なことが多かったりエントリーレベルの仕事だったりする。日本のように正社員と派遣社員が机を並べて同じような仕事をしているのは私には違和感があった。しかも誰が派遣社員で誰が正社員なのか、ある程度の時間が経過するまで誰も教えてくれなかったし、それをいうのはタブーのようであった。

男と女の仕事が明白に分かれている

私の新卒で入った会社は今思うと超ドメスティックであったためか、男と女の仕事が明白に分かれていた。私は営業課に属していたいたが、営業は全員男で、アシスタントや事務・経理などはほぼ全員が女性であった。女性営業も社内にいるにはいたが、私が在籍していた当時はまだ片手で数えられるぐらいの状況で、「あの人は女の営業X人目だからな」などの会話がちょこちょこあった。男女バランスに厳しい豪州ではこういった職場は珍しい。

日本人しかいない

当たり前なことかもしれないが、社内に日本人しかいない。実際は海外の方も在籍していたのかもしれないが、私が仕事をする上で付き合いのある人には日本人しかいなかった。役職のある人も日本人しかいない。豪州やインターナショナルスクールで育った私からすると、異様な空間ではあった。

「40歳になると年収あがるから」

若手社員への研修で、人事部から言われた一言。今でも覚えている。横軸に年齢、縦軸に年収のグラフが40歳くらいから急激に伸びていくグラフ。遠回しに若手社員の離職率を抑えたかったのかなと今は思う。当時の私は「20年近く先のことを今言われてもね」と思っていた。

そもそも20年後にこの会社が存続している保証はあるのか?

残業はかっこいい

残業をかっこいいと思ってる先輩は多かった。そういう先輩はレッドブルとかよく飲んでた。なんの仕事をしていたのかは分からなかった。

利益より売り上げが大事

新卒で入った会社は「売上額」ばかり議論し、利益率についてはほとんど議論しなかった。1億円売って2000万円儲けるのと、5000万円売って2000万円儲けるのでは仕事の根本が異なり、重要なところでは?と私は思っていたが部長や課長は一切気に留めていなかった印象。なので自分の案件でも利益がどれくらい出ているのか、わからないことも多かった。聞いても調べても分からないこともあった。「お前は黙って売ればいいんだよ」的な。一体あの部署の利益はどれくらい出ていたのか?

以後転職したアメリカ企業や、今働いてる外資IT企業においても「利益率はXX%維持」や「利益率は定価でXX%あり、何%までは営業権限で値引きして良い」などの指標があることが多い。

先輩からの「引き継ぎ」

今思うと日本企業最大の武器「引き継ぎ」が存在することだ。私は先輩の顧客や案件を引き継ぐこととなり、先方の担当者との挨拶や、案件の説明をみっちり受け、引き継ぎ期間3ヶ月ほどが設定されるなど今思うと手厚い環境であった。

現場にもよると思うが、オーストラリアで働くと原則引き継ぎは存在しない。一定数の割合で、前任者がすでに会社にいなかったりする。誰に聞いても、前任者の上司に聞いても誰も分からないこともザラ。先方の代表電に電話をかけて担当者を探すこともザラ。そう思うと日本はしっかりしている。

人前での説教がザラ

フロアに結構な人数がいるのに、部長が課長を人前で説教する。課長が部下に怒号をあげる。などが普通に行われていた。豪州や米国の環境でこれをやると訴えられたり、怒っている方が問題児扱いとなるので私は最初びっくりした。アンガーマネジメントという言葉があるくらいです。

??「君には日本語が通じないのかね!?」

終わりに

「日本は働きにくい」などとよく言われるこのご時世だが、オーストラリアで3年ほど働いてから振り返ると良いことも多かったと思う。もちろん今でも理解できない風習やルールはあったが、引き継ぎなどがしっかり存在することもあり、仕事の基本を覚えるのには絶好の環境なのではと思う部分もある。

今思うと、日本での就労経験は自分の財産だ。超ドメスティックな会社に在籍したので、メールや客先での言葉遣いや作法を徹底的に叩き込まれた。オーストラリアで卒業後も働いていたら身に付かなかったスキルである。

今は仕事柄、日本とアメリカとオーストラリアと関わることが多く、日本での経験がまさに生きている。

当時は苦しいこともあったが、人生何がどう回って自分のためになるかはわからない。

日々目の前の仕事や試練と1つずつ向き合うことが大事なのかも。と思っています。

日本生まれ、海外育ち、2018年よりオーストラリア在住。2021年7月に第一子が誕生。普段は外資系企業でサラリーマンやってます。

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