オーストラリア:歴史と現在

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こんにちは。ジュークです!

今回は私の住むオーストラリアの歴史について簡単にお伝えしたいと思います。

私はオーストラリアの大学で歴史学を専攻していました。歴史を知ることで、その土地の現在の形、なぜ人々が現在の暮らしをしているのかが紐解ける面白い学問だと思っています。

それでは早速行ってみましょう。

オーストラリアの「歴史」

オーストラリアの歴史と聞いて、みなさんどんなイメージでしょうか?

私が豪州で出会った人々と話していてよくある回答は—–

  • 歴史が(日本と比べて)短いイメージ
  • 白豪主義などのマイナスイメージがある
  • そもそも歴史がない印象
  • 歴史よりカンガルーやグレートバリアリーフなどの印象が強い
  • オーストラリア人の歴史上の人物が思いつかない

こんなところでしょうか。

確かにオーストラリア連邦としての国家の成立は1901年のため、その歴史は120年たらずの若い国ということになります。日本の2000年に比べると短いですね。日本が明治維新で盛り上がった時ぐらいからしか国家としての歴史がないということですから。

同時に、若いからこその歴史も多くあるのがオーストラリアという国家だと思います。

年表の穴埋めなどでは面白くないので、身近なところから歴史を紐解いてみたいと思います。

まずオーストラリアに来られて多くの人が思うことの1つに、

「オーストラリアはなぜこんなに多種多様の文化・人がいるのか?」

ではないでしょうか。白人はもちろん、アジア人、中東系、アフリカ系などその幅は広いです。レストランも世界各国の料理が楽しめます。なぜオーストラリアはこのような社会を形成したのか?順番に、手短にまとめてみたいです。

18世紀:英国社会の形成

オーストラリアに住む多くの白人は、そのルーツをイングランドやスコットランドに持ちます。その理由は明確で、1770年代にオーストラリア大陸が時のイギリス帝国によって「発見」(※大陸時代の発見はオランダやフランスなど諸説あり)された後、当初はイギリス本国に収容できなくなった囚人を送り込む流刑地として植民地化されたからです。

したがって、現在のオーストラリアの人口の大部分を占める白人のオーストラリア人はその子孫ということになります。

1770年代は世界史に詳しい人はピンと来ていると思いますが、アメリカ合衆国がイギリスからの独立運動を起こしていた時期にあたります。言葉を変えれば、イギリス人の移住先・流刑地としてのアメリカの代わりが必要になり、その時期に見つかったオーストラリアに白羽の矢がたったということになります。

18-19世紀:大英帝国内の移動

大英帝国と聞くとイギリス人すなわち白人国家というイメージが強く、その通りなのですがイギリスが1850年代ついに手中に収めたインド、アヘン戦争で手に入れた香港、そしてアジアではシンガポールを得ていくことで、特にこのアジア太平洋地域でのその性格が変わってきます。

大英帝国内では移動が全くの外国へ渡るよりかは容易だったため(つまり外国扱いではない)、結果的に多くの中国系・インド系などの「有色人種」がオーストラリア大陸に仕事と可能性を求めて雪崩れ込むこととなります。

時のオーストラリアはゴールドラッシュ。

穴を掘れば金が出るとまで言われた一攫千金の土地を巡って、「先住民族」である白人と、「移民」である中国系・インド系の間に最初の亀裂が生じます。これがのちに国策とまでなった「白豪主義」の大元と言われています。

1901年:オーストラリア連邦の成立

正式名「オーストラリア連邦」(Commonwealth of Australia)の成立は1901年。大陸発見・植民地化からおおよそ130年後の出来事でした。

これはオーストラリアに限った話ではなく、南米諸国やほかの旧イギリス植民地でも100年が1つのターニングポイントとなっている国は多いです。理由は、100年経過しているとその植民地の人々は移民2世・3世となり、母国への愛着・記憶が1世に比べると薄れていくからだと言われています。

当時は現在のように海外移動も楽ではなかったですしもちろんインターネットもありません。時を経てオーストラリア生まれのオーストラリア人が増え、その多くの人々は宗主国・イギリスにすら行ったことがない。祖父母や両親の世代は、イギリスから移民してきた事実と比べると、「俺たちってイギリス人というよりはオーストラリア人だよな?」という意識が強まったとされています。

1910年代:第一次世界大戦への参戦

日本の教科書にはあまり書かれていないようですが、オーストラリアは第一次世界大戦に参戦し、宗主国・イギリスが戦っていたヨーロッパ戦線に兵士を派遣しました。これは「イギリス帝国」の一員として「忠誠心」「愛国心」を示すためのものだったとされています。

現在でもオーストラリアとイギリスは特別な関係にあります。オーストラリア国旗には独立100年経過した今もなお、ユニオンジャックが残っています。今回のコロナウィルスの件でのエリザベス女王のスピーチも全国ニュースで流れました。まだまだイギリスへの感情的な繋がりは強いと言えるのではないでしょうか。

また、世界一次世界大戦勃発前の1902年に結ばれた日英同盟は当時のオーストラリア社会に多くの衝撃を与えたとされています。

当時の日本と言えば日清戦争に勝利し、のちの日露戦争にも勝利して近代化・軍国化のイケイケドンドンの状態にありました。

1901年に国策として始まった「白豪主義」を掲げたオーストラリアにとって「有色人種国家」日本は仮想敵国とまで言われていました。ゆえに、当時のオーストラリアにとっての国防No.1議題はその日本とどう向き合うか。しかし、その日本と宗主国・イギリスが同盟を結んだ。イギリスと違って地理的には日本に近いオーストラリアは自身の安全を疑問視し始めます。

それまでイギリスにさえ付いていけば良いと思われていたオーストラリア社会でしたが、これを機に「おれたちオーストラリアはどうすればいいんだ?」と政治・外交的な混乱が生まれ始めます。

1920〜40年代:第二次世界大戦前後

世界はこの時期、アメリカを発端とする世界恐慌により多くの国が不景気に陥りました。

日本でもこれが発端で第二次世界大戦へ舵を切ったとされています。

これにより新たな仕事と可能性を求めて大量のイタリア人がヨーロッパを離れ、南米・北米・オーストラリアに移住することとなります。オーストラリアに住む多くのイタリア人はこの時代に移り住んだとされています。第二次世界大戦終了後も、敗戦国イタリアにまともな衣食住は期待できなかったため、第二波のイタリア人移動があったとされています。

イギリスも世界大戦には勝ったものの、ナチス・ドイツとの戦争に疲弊しその国力を失うこととなります。イタリア人と同じような理由からイングランドやスコットランドからの移民もこの時期にさらに増えたとされています。

また、第二次世界大戦中にイギリス海軍は香港・シンガポールというアジア主要拠点を日本に奪われました。その結果、イギリス帝国のアジアでのプレゼンスは急激に低下。オーストラリアは独自の防衛路線を模索することとなり、その結果、当時アジア太平洋で急激に影響力を高めていたアメリカ合衆国とついに手を結ぶことになります。

今ではすっかり仲良しの2ヶ国ですが、この時代の豪州と米国は決して良い関係にはありませんでした。その理由の1つがお互いの共通の宗主国である英国との距離感での違いです。前述の通り、イギリスに対していまだ帰属意識のあるオーストラリアに対し、米国は戦争までして独立を勝ち取った国。同じイギリス植民地としての出発点は共通であるものの、イギリスとの関係の違いから距離があったとされています。

豪州と米国の蜜月は、共通の敵である日本との共闘で築き上げられ、太平洋戦の争終了後も続き、1951年に締結され現在も効力を持つ軍事同盟「ANZUS条約」がその象徴とされています。さらに、2021年にはAUKUS同盟が結ばれ、その結束が再度証明されました。

最後に、豪州における反日感情は第二次世界大戦が大きく起因します。オーストラリアと日本は第二次世界大戦で敵対関係にあり実際に交戦したというのが最大の理由でしょう。オーストラリア北部のダーウィン爆撃やシドニーのダーリンハーバー攻撃などが該当します。

ダーウィンは特に空爆で死者が出ているのでいまだに反日感情が少なからず存在しているようです。

1950年〜1980年代:東西冷戦と白豪主義からの脱却

今となっては人種差別には厳しいオーストラリアですが、それは皮肉にも強烈な人種差別の歴史があってこそ。

1901年に国策となった「白豪主義」(White Australia Policy)により、「白人であるオーストラリア人こそ、真のオーストラリア人だ」「白人社会こそが文明社会だ」という信念の元、様々な制作が打ち出されました。

大きく2つが挙げられるとされており、1つは有色人種の入国拒否、そして2つ目は先住民族アボリジニに対する浄化でした。後者は簡単に言えば、白人文明こそが至高なのだから先住民アボリジニの文明開化のお手伝いをしてあげましょうという、現代では考えられない民族浄化政策です。

事実、第二次世界大戦後もオーストラリアへ難民として受け入れられた移民のそのほとんどが白人、さらにその多くはイギリス系だったとされています。

ただし、大戦前後で異なるのがオーストラリアとイギリス及び欧州との繋がりの度合いです。

世界大戦後の欧州は、ドイツもイギリスもフランスも焼け野原となり経済も大きな損害を受けました。よって自国の経済復興が最優先事項となり、外国や植民地への援助や経済協力は二の次。

さらにはこの時代は米ソ冷戦が加速し、「鉄のカーテン」でヨーロッパは西側と東側で分断してしまう。冷戦が収まり始める80年代にはソ連をはじめとする共産国家が政治的・経済的に不安定になり、欧州経済は再度岐路に立たされました。

90年代には冷戦終了とともにヨーロッパ連合成立の動きが加速し、オーストラリアの宗主国イギリスは「イギリス連邦」ではなく「ヨーロッパ連合」と共生する道を選ぶ。

このことから、オーストラリアは再びイギリスないしヨーロッパの一本足打法からの脱却、つまり欧州に依存しない独立国家として生き抜く術を探し始めます。

80年代〜90年代:多民族国家「オーストラリア」への舵きり

そんな状況で打ち出された国策が、その時代に急激に経済力を伸ばしたアジア太平洋との融和でした。

時はアジアの経済成長時代。

高度経済成長を遂げた日本はもちろん、90年代は韓国、台湾、香港、シンガポールなどの国々が経済成長真っ只中。それに引き換え、ヨーロッパ連合内で盛り上がる欧州諸国。新しいお友達であるアメリカはアメリカで北米経済圏の構築に忙しく、「白人国家」の自負のあるオーストラリアはそれまで距離を置いていた「アジア太平洋地域」の一員として生きていくことを考え始める。アジア開発銀行への参画などもその外交政策に現れています。

融和を加速させるため、1970年~80年代にはついにオーストラリアが白豪主義を実質撤回。人種差別を違法とし、人種平等化に動き始めます。それまで「白人国家」でアジアと距離を置いていたオーストラリアのイメージを払拭し、アジア太平洋に根付いた国に生まれ変わる舵を切りました。

この時代のアジアは経済成長のみならず、政治・戦争の面でも上下がありました。オーストラリアはそのような国々に手を差し伸べることで「俺たち仲間だよ」のメッセージを発信し続けました。

例えば、1970年代にはベトナム戦争が勃発し多くのベトナム人が難民となります。

さらには90年代後半には、香港の中国返還という大きな出来事がありました。この前後に香港人がカナダやオーストラリアといった旧大英帝国植民地に、中国共産党の迫害を恐れ逃れることとなります。

アジア太平洋地域に生きることを決意したオーストラリアはベトナム人・香港人に救いの手を差し伸べ、難民として受け入れました。現在豪州におけるベトナム・香港コミュニティはこのあたりから形成されています。

オーストラリアにも多い香港コミュニティとその歴史についてまとめた記事もぜひご参照ください。

[blogcard url=”https://19australia.com/2020/12/20/hong-kong-stories/”]

90年〜2000年代のオーストラリア

90年代以降は中東で度重なる戦争が起き、その度にオーストラリアは難民を受け入れてきました。特にレバノン紛争の難民受け入れは顕著であり、シドニーやメルボルンといった主要都市には大きなレバノン人街があります。

また、ソ連を盟主としていた共産経済圏の崩壊による東欧系移民も増えました。同時にヨーロッパ列強からの独立戦争や民族間の紛争の絶えないアフリカからの移民も増え始めるのもこの時期です。

2000年以降は、急激に経済成長を遂げた中国が目立つようになります。

中国が過去の移民と違う点は、その資本力にあります。多くの不動産や土地を次々と購入できるその資金力は、富裕層やオーストラリア政府にとっては「良いお客さん」ですが、大衆からすると異常なまでの物価上昇、学費の値上げや不動産価格の高騰など様々な問題に結びつけずにはいられなくなっています。オーストラリアへ移住する中国人の多くが中流階級以上で経済的にはかなり余裕のある層でもあります。その多くは共産党による資産凍結などを恐れて資産を海外に移しているようにも見受けられます。

したがってそれまでどちらかというと、戦争難民や経済的理由からオーストラリアへ移住する人々が多かった事と比較すると、中国人のオーストラリア移住はその毛色が全く違います。

賛否両論のある中国人による豪州移住。

今後どうなるでしょうか。

番外編:オーストラリアにおける日本人の現在

ここまできて、「あれ?日本人はどこいった?」となったかもしれません。

事実、オーストラリアにおける日本人プレゼンスは小さいです。主要移民国では、韓国・ドイツ・香港の約10万人を大きく下回っています。

歴史的に見ると、日本人の豪州移住は1920年代の世界恐慌前後と戦後の「戦争花嫁」が目立ちます。以降は、永住目的ではなく観光や留学といった短期滞在が過半数を占めます。

私が生活をしていて実際に感じるところでもオーストラリアに住む日本人の多くは、ワーキングホリデーか留学またはオーストラリア人と結婚した日本人女性です。

以前どこかの調査でオーストラリア在住の日本人の6〜7割が女性だったそうです。となるとワーキングホリデーや留学などの「短期滞在」もしくはオーストラリア人男性と結婚した女性がほとんどを占める現状ですと、社会に影響を与えるほどのプレゼンスは限定的になりがちです。前述の中国系などに多く見られる資産・ビジネス目的での移住も少ないと思われます。

これは私の推測ではありますが、日本人のオーストラリアにおける移民としてのプレゼンスの低さは日本が戦後に生活が崩壊するほどの経済危機もなければ内紛も起きていないので、「移住しなければならない」社会情勢がなかったからだと考えます。香港の迫害危機やベトナムの戦争難民、東欧の生活崩壊などといった国の根幹が歪むことがなく比較的平和な時代が続いているため、「平和を求めての移住」は限定的であり、そうなると必然的に勉学や海外経験、結婚といった理由が目立つと考えます。

90年代は絶好調だった日本企業の進出も、最近はだいぶ落ち着いたようです。もちろんトヨタや本田技研といった自動車メーカー、ダイキンといった空調設備の会社は存在感があります。一方でオーストラリアの家電量販店では日本製品の数はぐっと減ったようです。ソニーのテレビ、日立の冷蔵庫が少しあるぐらいの印象です。駐在員が減ればもちろん日本人コミュニティも小さくなります。

そういう理由もあって、日本人相手の就労というのは求人数も少ないですし、驚くほど狭い世界でもあります。

終わりに

長くなってしまいましたが、ありがとうございました。オーストラリアの歴史とその現在について、ご興味を持っていただけたら幸いです。

興味を持っていただけましたら、下記の本がおすすめです。とてもわかりやすくオーストラリアの国家として歴史が学べます。

物語オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験 (中公新書)

日本生まれ、海外育ち、2018年よりオーストラリア在住。2021年7月に第一子が誕生。普段は外資系企業でサラリーマンやってます。

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